東海道の神様
2010年01月16日 | カテゴリー アーカイブ | コメントする
部屋に1人で座っていると、ふいに横に1人の小柄な老人が座っていることに気づきました。
「誰です?」
「東海道の神だよ」
!!
……ここで目が覚めました。
熱に浮かされて変な夢見たなぁ……続きが妙に気になるなぁ……東海道の神って、なによ……
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風邪が治りません
2010年01月15日 | カテゴリー アーカイブ | コメントする
水曜日に11時間、木曜日も12時間寝たのに……一向に熱が下がらないので、仕事にも微妙に影響出ています……
こういうときでも休めないのが社長業の辛さですね〜。
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風邪引いた
2010年01月14日 | カテゴリー アーカイブ | コメントする
伊豆は無茶苦茶暖かかったり寒かったりして、ほうぼう歩き回ったので、やっぱりというか、何というか、風邪を引きました。昨日の夜は40度、今朝37度、今……不明。
さっきからやたらキーボードの打ち間違えはするし、「あたたかった」と何度打っても「暖」の字にならないので一人でアレ?とか言って気づかないし、こりゃもうダメそうです。
メール対応もとりあえず一区切りついたので、とりあえず引き上げて自宅で対応させて頂きます……あー、ここまで書くのにやたらキータッチがミスりまくり……
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最近見習おうと思ったこと。
2010年01月12日 | カテゴリー アーカイブ | コメントする
年末に龍馬のことを書いていてふと思い出したことなのですが、維新の頃に桐野利秋という人物がいました。維新志士の中でも傑出した快男児で、会津城の明け渡しでは見事な立ち居振る舞いに敵味方共に涙したと言われる人物ですが、坂本龍馬と同じく身分の低い下士の出身で、父親が罪あって流罪となっており、幼い頃に随分苦労したと伝わっています。ちなみに彼は薩摩藩なので、長曽我部氏云々ではなく、単純に身分の低い武士という下士です。
幼い頃に勉学をせずにいたので、彼は維新で活躍するようになっても、「御藩」と「弊藩」の意味を取り違えて覚えており、真逆のまま相手に話したり、宮中のことを「禁闕」といいますが、この闕の字を「関」と間違ってキンカンなどと発音したりしたので、志士の仲間から溜まらず指摘されたそうです。すると彼はカカカと笑い、こう言ったそう。
「おいどんに『日本外史』が読めるほど学問があれば、天下が取れるのう」
なんか、凄くいい言葉じゃないかと思うのですよ。
人間多かれ少なかれ見栄というものがあります。よく見栄を捨てろと言いますけれども、そんなデキた人じゃなければ見栄を捨てるなんて簡単にできないのです。そこにくると彼は見栄を捨てる訳じゃなく、とっさに「もし、仮に俺に学問があれば、今頃俺が天下を取っている」と言い返すことで、自分の見栄も守り、周囲に笑いをもたらしたわけです。素晴らしい回答センスだと思います。
後に彼は会津戦争にも参加し、ついに会津藩は降伏、城の明け渡しが行われることになりました。
維新時代とはいえ、まだまだ武士の習慣が色濃く残っていた時代です。城の明け渡しには大変難しい故実があって、その使節には式次第滞りなくできる学識と度量がある人物が任命されることになっています。最悪失敗すれば、藩士らは城を枕に討ち死に覚悟で抵抗を再開してしまうのですから、責任は重大です。
そこに桐野利秋は自ら志願します。彼の無学は有名だったので、多くの志士は反対したようですが、余りにせがむので仕方なくやらせてみたところ、実に見事な所作でもって完璧に明け渡しを行ったばかりか、花も実もある振る舞いに敵も味方も感涙にむせび泣くといった出来映えだったそうです。
「どこでそんな所作を覚えたのだ?」
周囲からそう問われ、彼はニッコリ笑ってこう答えたそう。
「なぁに、江戸が開城してしばらく暇だったから寄席に出かけて講釈を聞いたのです。そこで赤穂城明け渡しの場が演じられておって、何度もやるから覚えてしまって、それをその通りにやったのでごわす」
もう参っちゃいます。多分彼は冗談でそう言っただけでしょうけど、自分の無学を最初の一言でさりげなくかわして、それからちゃんと学んでいるんですね。言い逃れでは済ませない彼の身の清廉さに惚れますね。
ちなみに講釈で聞いた云々は「義臣伝」という講釈があって、つまるところ忠臣蔵の話なのですが、浅野内匠頭が刃傷に及んで切腹、家老だった大石内蔵助は赤穂城を幕府に明け渡すシーンがあります。史実では内蔵助は領内の藩札などをキレイに処分して、財産分与も滞りなく行ったばかりか、藩主代々の墓を供養するための計らいまでを僅かな期間にやり通し、実に見事な城明け渡しを行っています。当時の武士道として最も洗練・完成した人物が大石内蔵助であり、講談でも赤穂城の明け渡しは序盤の大きな舞台となっています。
後に西郷隆盛ほどの人物も、桐野利秋を評して「彼をして学問の造詣あらしめば、到底吾人の及ぶ所に非ず」と言っているくらいで、やはりその人物は大変優れたものがあったのでしょう。彼は西南戦争で西郷と共に奮戦し、最後の最後まで抵抗して果てたとのことです。
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