年末だ、言っておきたいことがある。
2009年12月25日 | カテゴリー アーカイブ
『忠臣蔵』と言えば、浅野内匠頭が松の廊下で刃傷に及び、御身切腹、御家断絶となり、その後義士らが討ち入りを行う筋立ての年末恒例のテレビドラマですが、その浅野内匠頭がどうして刃傷に及ぶのかについては、実は確かな説が出ていません。
ドラマだと、朝廷から勅使が来て浅野はその饗応役に抜擢されるも、吉良の意地悪で作法を教えてもらえずに恥をかかされ激怒、刃傷に及ぶという話になっていますが、これならば吉良の職務怠慢は明白であり、後日無罪放免とはなりますまい。
他説によれば、賄賂を満足に吉良へ贈らなかったことで親切を受けられなかったことを恨みに思ったという話もあります。江戸時代は収賄が横行しており、現代ほどクリーンさを求められる体質でもなかったので、吉良家のように朝廷と幕府の取り次ぎ役を職分としている家にとって、新たに饗応役たることを任じられた浅野が役目上の挨拶(賄賂)をしないことは失礼な奴だと感じられるのは、(表だってはそうでないにせよ)結構普通のことであったように思われます。露骨な意地悪はなかったにせよ、浅野から見て傲慢にも見え、自分を軽んじているようにも見えたでしょう。当時は体面を重んじるのが武家社会です。屈辱を感じて事に及んだ、ということはあり得なくもありません。
さらに他説では、吉良氏が自分の領国で塩田を新たにはじめたのですが、その製法について赤穂の塩が秀でていたため、その市場競争の中に含むところがあったのではないかという話もあるのですが、いずれにしても状況証拠ばかりで具体的な証拠がないのです。
ただ、浅野内匠頭の刃傷については、それほど一方的に浅野内匠頭が不遇を被ったのかという点は微妙で、朝廷からの勅使が来ている当日、刃傷沙汰に及ぶというのは結構重大事件であり、御家が断絶されるのはもっともあり得る事だとは思います。ただ、吉良氏が無罪というのは、家康以来の「喧嘩両成敗」の原則から外れるものであり、吉良氏が当初において軽すぎたことの方が問題としては大きいように思います。
当時の将軍は犬公方として有名な綱吉将軍で、彼は生類哀れみの令など天下の悪法で知られるために愚昧な王であるように思われていますが、実は15代将軍中最も好学、最も優秀な頭脳を持つ将軍でありました。彼は大変優れた人物で親孝行でもあり、家族を大事にした人物でしたが、我が儘で、我欲が強く、独占欲がひときわ強い人物だったようです。江戸城で自分の命令が無視された事に対して激怒し、浅野内匠頭は直ちに切腹、命令に従って剣を抜かなかった吉良上野介は無罪であると判じ、周囲の諫言は聞こうとしなかったといわれています。これが赤穂義士蜂起の直接原因となります。
当時の時代背景、つまり儒教的な道徳観念から言って、吉良が応戦のために刀を抜かなかったのは、これも実は批判されるべき状況です。武士は戦って死ぬのは恥ではなく、突然の不意打ちであっても、一方的に斬られてしまうのは大変な恥辱であり、不都合な奴だと言われかねません。当時の武士道は儒教の影響下で整備されつつあり、「忠が第一、孝が第二、忠孝相立たぬ時は死ね!」というのが本気で信じられていました。武士はどんなときでも即応できるよう身を処しておくべきで、判断基準として忠孝があり、判断に迷ったり、忠孝が相立たない場合は潔くするのが最も理想的な姿であると考えられていたのです。
当時の感覚で見ると、吉良上野介は忠として綱吉将軍の命に背かず、孝として御家の恥辱とならぬような振る舞いをすべきであり、突然のことで応戦できなかった吉良氏は、現代の感覚では立派かも知れませんが、当時の感覚では不都合者の批判はあったろうと思われます。事実、当時の日記にも「本懐すら遂げられず浅野内匠頭が可哀想だ、不憫だ」という記述が多く見られます。これは詰まるところ、吉良氏への批判を言っているのだと考えられます。
ただ、浅野内匠頭が立派な人物だったかというと、そうでもなさそう。
赤穂義士の日記や手紙の中には、「内匠頭に義理はないが、御家断絶の行きがかり上やむなく」という内容のものが各人結構見られます。要するに武士道的な「忠」を立てた結果、浅野内匠頭への個人的な思慕ではなく、意地のために義挙に及んだことが明らかです。
それでも浅野内匠頭が特別愚かな人物ではなかったと思いますが、特別優秀な人でもなかったのでしょう。場所も弁えずに激昂して刃傷に及んでみたり、その刃傷でも「突く」のではなく、「斬った」ので致命傷にはならなかったわけで、それは当時から言われており、
初手は突き二度目はなどか切らざらん石見がえぐる穴をみながら
という落書が当時出回ったそうです。
要するに、「なんで斬ったの、突けば仕留められたのに」ということですが、先立つこと少し前、幕閣に稲葉正休という人物がいました。綱吉の将軍職就任に関する功労者だった堀田正俊という人物とは従兄弟関係だったのですが、綱吉に媚びるあまりに刺し殺してしまう事件が発生します。彼は名刀として名高い「虎徹」を何本も買い込んで、農具の鍬を刺し貫けるか試し、その中から厳選した刀を持ち込み、隙を見てひと思いに堀田を突き刺して倒したと言われています。その稲葉正休が「石見守」だった、と説明すれば上の落書の意味も取れるのではないでしょうか。
こんな落書が出回るほど、世間的な感覚で見ても浅野内匠頭についても「咎なくて死す」と言うことはなかったのですが、忠臣蔵の物語が整備されるにつれて、彼は名君で善人、ちょっと押しの弱い人物であるように変わっていったのだと思われます。
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