
Pelikan Souverän M800 Grüngestreiften (Federbreite:3B)
僕の愛用品、ペリカン社のスーベレーン M800 緑縞 森山モデルです。ペン先が紙面から浮かない程度の絶妙な重量感、しっくりと手に馴染む若干太めなボディ、調整され、まるで紙の上を走るようにスルスル書ける感覚……売文を生業とする僕にとって、彼はまさに頼りになる相棒です。緑縞という、ちょっと変わったデザインにも込められたストーリーがあって、それまでもが僕の想像力をかき立てるものがあります。この万年筆を手にして以来、銀行などで使う複写用紙、水性ペン禁止の書類以外でボールペンを使うことが滅多になくなってしまったほど、僕にとって深く愛すべき1本となっています。
僕が初めて万年筆と出会ったのは、多分小学生の頃。学校の先生がプラチナのデスクペン(DPQ-700)を持っているのに憧れて、町の文具店で買ったのが初めてだったと思います。万年筆の使い方も全然知らない子どもですので、当然使えるはずもなく、「物凄く使いづらく、よく出なくなるペン」という印象が強烈に残りました。僕と万年筆の出会いは、決して良質なものではなかったということです。
ところが大学生になって、遅ればせながら国文学に興味を持って自分の意志で勉強に打ち込むようになった頃、原稿用紙に文字を書くことが大変増えたことから、再び僕の中で万年筆への思いが込み上がってきました。当時、メインで使っていたのが300円相当のインクペンだったのですが、何しろ大量の文章を書きますから半月もするとインク切れになってしまいます。300円なりに気に入っていたインクペンですが、ある日、ついにどの店に行っても見なくなってしまいました。どうやら生産が停止されたみたいなのです。結局別のペンを探すことになったのですが、その時手に取ったのが、小学生の時に買って使わずじまいになっていた、あの万年筆でした。
大人になって使い方も分かるようになり、書き味に対する好みなどへの理解もある程度持って、使っているうちになかなか良いものだと思うようになってきました。安物の、ペン先だってスチール製ですから、どうしたって書き味が良いはずもなくて、頻繁に掠れたり、インクの出が悪くなったりするのですが、それでもなかなか悪くないと思ったのは、ドイツの親しい友人の多くがそれぞれに自分の万年筆を持っていて、その持ち物に結構こだわる様子を見ていたので、これに影響を受けたのは確かだと思います。彼らが持っている万年筆は本当に格好良い道具、普段使いの万年筆、生活の中のおしゃれっ気、というイメージがあって、当時も今も彼らのスタイルに強い憧れを感じています。
数年前、インターネットで偶然見つけたのが、森山信彦氏の工房「フルハルター」です。そもそも万年筆の高い、安いの決定的な違い(ペン先)を知らず、そのペン先を調整するという行為自体をイメージすらできなかった僕にとって、森山氏の仕事は大変な驚きでした。こんな仕事があったなんて! こんな方法で自分用に調整された万年筆が作られるなんて!
こういう人の存在を知って、ムズムズしない僕ではありません。早速にフルハルターへお伺いしました。
唐突に伺った挙げ句、まずはお話だけでもお聞かせいただきたいのですが、と恐る恐るお願いしてみると、森山氏は笑顔で快諾してくださいました。
森山氏は、無調整の万年筆を量販店で買い、その書き味が悪くて使ってくれなかったら、それはとても悲しいことであると僕に語ってくださいました。森山氏は顧客の万年筆の持ち方、筆跡などから、万年筆を持ったときの角度や筆圧を割り出し、ペン先の微妙な紙へのアタリを調整してくださると言います。通常、ペン先は主にイリジウムという稀少金属を用いており、これが耐食性・耐摩耗性に優れていることから採用されているのですが、一般的に売られている状態ではこのイリジウムが特に調整されていないためにカドが立っていたりするので、ペンの持ち方によってインクが掠れたり、出にくかったりする現象が生じるらしいのです。森山氏は顧客のクセを見抜いてイリジウムを研磨し、カドを取って丸みのあるペン先にし、紙面と接する部分に中心が来るように、その微妙な角度を調整してくださる。だから持ち主以外の人には使いにくく、持ち主には実に素直なペンになるそうです。素晴らしい!
さらに森山氏は実際の万年筆を見せてくださいました。

クリップの部分がペリカンの嘴を模しているなど、結構芸が細かいのです。キャップの口には金装飾で「Pelikan Souverän Germany」の刻印が。
この時出会ったのが、ペリカンのスーベレーン M800でした。第1印象は、「あ、面白いデザイン」でした。万年筆に渋さを求めていたので、理想的なデザインはモンブランっぽいものでした。だから茶色の縞模様(フルハルターで見せて貰ったのは茶縞だったのです)の万年筆はどちらかというと僕の路線からは外れていて、実は余り候補に上ってこなかったのです。
後日、ドイツの友人の1人が「俺の万年筆は茶縞だよ」と言って写真を送ってくれたのですが、何となく彼らの持っている万年筆が黒っぽくて渋くて格好良いなぁ、というイメージがとにかく先行していたので、正直スーベレーンにはグッと来ませんでした。
ただ、魅力に感じたのは吸引式という機構です。森山氏によると、ペンをそのままインク壺にドブンと直接突っ込んで、ペン尻をくるくる回すとインクが充填されていく。逆に回せばインクが排出される。インクの出し入れを繰り返せば掃除の役目も果たし、メンテナンスする必要はないとのことでした。事実、現在まで僕は掃除らしい掃除は一切していません。じっくり使ってやり、折に触れてインクを吸引しているだけです。
悲しいかな、現在万年筆の多くがコンバータ式を採用しており、コンバータにインクを充填させて使うタイプが主流です。機構自体が廃れてしまっていて、現在はペリカンとアウロラの一部だけにとどまっています。ペリカンの万年筆にグッときたのは、むしろこの部分に対する思い入れに共感した事が大きいように思います。最近も森山氏とお会いした際にこの話題になったのですが、「これだけ合理的な仕様なのに、廃れてしまったのが残念でならない」と言い合っていました。

このようにペンごとどっぷり入れてしまう。

ペン尻の部分をクルクル回すと、このように隙間ができる。これを戻す過程でインクを吸引する仕組み。

ペンを引き上げたところ。黒いグリップ部分までインクに浸ける。
しかし、デザインです。嫌いと言うほどではないにせよ、渋いデザインを期待していた僕としては、縞模様のスーベレーンのボディには余りそそられるものを感じませんでした。ところがドイツの友人が「Souverän の Streifen(ストライプ) にはこだわりがあるんだ」と前置きして、実はあの縞模様は種類の違う2色の樹脂を交互に引き延ばして整形する、しかも手作業で! という話を聞いてしまったものだから、俄然見る目が変わってしまいました。本当に僕は影響を受けやすい人です。「97年のペンオブザイヤーで一番人気だったのは緑だよ」とも教えてくれたので、この段階でほぼM800の緑縞に決定していました。

透明樹脂、着色樹脂を交互に重ね、整形したボディ。手作りなので、この世にふたつとして同じものはない。
数ヶ月後、改めて森山氏にお願いして「優れもの(Souverän)」の調整をお願いしました。ペンの太さは、3Bを3Bとして研ぎ出して貰いました。
当たり前のことですが、ペンの太さが細ければ細いほどイリジウムの量が少ないのです。そのため、3BからBやMに研ぎ出すというのが森山氏のスタイルらしいのですが、僕は太字の方がよかったので、敢えて3Bを3Bのまま研ぎ出して貰うようにお願いしました。
万年筆の魅力は、書いた文字の様子にあります。水性のインクが滲む様子、濃淡の美しさ、こういう部分に個性が出てくる楽しさが万年筆の面白みなのですが、細字では今ひとつ表現しにくいのです。太字には最も万年筆らしい個性があって、僕はそれを求めて3Bでお願いしたわけです。
「では、ここに住所と電話番号、名前をどうぞ」
と、紙と万年筆を渡されて、かなり緊張しながらなんとか書き上げました。このとき、森山氏は僕のペンの持ち方や角度、筆圧などを見極めているそうで、後日心に余裕ができてからお聞きすると、
「そりゃ緊張しない人なんていないと思います。プロにじっと見られて書くのに、緊張しない人はまずいないと思いますよ。その辺は経験で、ちゃんと割り引いて見ているので大丈夫です」
とのこと。ただ、その時はやたら緊張したことで後悔し、ひょっとして凄く違った研がれ方をされるんじゃなかろうか、と不安で仕方ありませんでした。
10日ほど後、森山氏から「完成しました」との連絡。矢も楯もたまらず、といった風でフルハルターに駆けつけると、いつも通り落ち着いた雰囲気の森山氏が待っていてくれ、僕のスーベレーンを手渡してくださいました。
恐る恐る試し書きをすると、驚き! 本当にスルスル、ヌラヌラとインクが出てきます。
紙面に当たるペン先の柔らかいこと。
そして、ごく自然に、たっぷりとインクが流れ出てきます。この表現を作家の山口瞳が「スルスル、ヌラヌラ」と表現したとかしないとか。実感が伴うと大いに頷けるものがあります。
この部分、むしろ1本はネット購入なんかで安く売っているペリカン万年筆を買って、しばらく使ってみると良い。この経験がないと、世の憧れである森山モデルの真の素晴らしさは理解できないと思います。市販のペリカン万年筆だって、決して悪い商品ではありません。むしろドイツマイスターの真骨頂であるスーベレーンが、森山モデルでなかっただけで価値が皆無になるわけではないでしょう。……ただ、違う。森山モデルと比較して、全然違うことに気がつかないはずはない。僕はつい先日、吉祥寺ユザワヤが閉店するのに際し、スーベレーンが半額になるセールがあって妻のために求めたのですが、使ってみてあまりの違いに愕然としました。さすがにこの違いすぎる違いに気づかなかったら、それこそ宝の持ち腐れであると言うべきでしょう。

ペン先。18金装飾なのは工芸的側面とインクによる腐食を押さえるため。会社ロゴのペリカンと18C-750(金の含有量)、太さである3Bの刻印が見られる。

ニブポイント。これがイリジウム。森山氏によって整形され、とんでもないアタリの良さに生まれ変わった!
インクの色は「ターコイズブルー」で。ペリカン万年筆の正統派と言えば「ロイヤルブルー」だと思います。どちらにするか迷いましたが、ターコイズブルーの鮮やかさ、濃淡がはっきり出そうな雰囲気が気に入ってこの色をチョイスしました。万年筆は途中で色を変えるべきではないと僕は思います。かなりペン自体に負担をかけることになるので、一度決めたらインクは絶対に換えないつもりです。
万年筆とインクを受け取って、ほくほくして帰宅。密かに自室に籠もり、いざ、早速……
一種の麻薬みたいなもので、このペンでやたら何かを書いてみたくなる衝動がしばらく続きました。スーベレーン、“優れもの”と銘打たれたペンだけに、使えば使うほど手に馴染む太めのボディ、ペン先が浮かない程度の絶妙な重量を実現した安定感、そして森山氏の調整によって真価を得た滑るペン先。書いていくほどに味が出る、書いていくほどに手に馴染む、初めての経験に相当驚いたものでした。
「最初は違和感があることもあると思うけれど、そのうち解消されます。使い込んでください」
実際、3Bという太いペン先のために、書き出しにインクが出ないことが当初は頻繁にありました。一旦インクが流れ出せば全然そういうこともないのですが、最初の一筆目で全然インクが出ない……相当長い時間試行錯誤して、ようやく流れはじめるという具合でした。これは太字のペン先によくあることらしく、森山氏は「使い込んでいくうちに解消されていきます」と仰っていたのですが、驚くべきことに、本当に最近では少なくなりつつあります。出ないときでも、「ん……」とほんの少し紙面に押し当ててやると簡単に流れ出るようになりました。こうなるともう、かわいくて仕方がありません。
元々字は下手な方ですし、仕事柄多作であることを求められるので、あんまり落ち着いて書き味を楽しむことはないのですが、思索の旅に出て、その中で思いつく単語を書き出し、是非に盛り込みたい台詞や表現を書き出すとき、僕は決まってこの万年筆を使います。科学的には根拠のないジンクスみたいなものですが、この万年筆を持っていると、それだけで落ち着くのです。パソコンに向かうときは文章を書き上げるとき。その前段階の儀式として、万年筆でプロットを書き出す。その時は決まって深夜で、家族が寝静まってから。静かに、心落ち着けて、じっくりとやっていくのが楽しい。そういう思索の合間に緑縞のボディを眺めて、ああ、実は意外にこの緑縞も悪くなかったなぁと思いながら、今日もニンマリ万年筆を弄り回しています。
ペリカン社Webページ(本社はスイスです)
フルハルター Webページ
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